『野獣死すべし』ああ、水戸を思い出すなぁ…
こんばんは、ロッカリアです。
当時、原作のファンからはかなりのダメだしをくらい、松田優作ファンからはイメージが違うと批判されたこの映画、作者の大藪春彦の小説を読んだ事も無いし、別に松田優作のファンでもなかった僕は、この映画が公開されていた時、1か月の出張で水戸の郊外の寮で生活をしていた。
同室の先輩が、原作を読んで面白そうだから映画も観に行こうと、誘ってくれたので、水戸の駅前の商店街の外れにある小さな映画館へと足を運んだ。
2本立てで、併映が確か『刑事珍物語』だった……。

刑事を刺殺して奪った拳銃で、闇カジノを襲撃して3人を打ち殺し、大金を手に入れた伊達邦彦(松田優作)は、長身だが細身で、何処か頼りない、普通のサラリーマンにしか見えなかった。
だが、戦場で人間の生死をまざまざと見せつけられたカメラマンの伊達の精神はすでに崩壊していた。
入念に銀行強盗の計画を練り、相棒の真田(鹿賀丈史)を見つけ、殺人マシーンとして訓練を行うと、計画を実行する。
が、先輩刑事を殺された警視庁捜査第一課の柏木(室田日出男)は、伊達を執拗にマークしていた。
強盗は成功するが、逃走中の伊達の前に、柏木が現れ、全ての事実を知る事になるのだが……。

① 松田優作の変貌ぶりは必見だ。体重を10キロ以上も落し、奥歯を全て抜いて頬がこけているように見せた。その上、身長を低く見せる為に、5センチほど足の骨を切断しようとしたが、さすがに実行はされなかった。
② クラシック・コンサートの会場で、小林麻美と知り合う、この映画の内容と真逆の微笑ましいシーンがあるが、これが後の悲劇を生み出す為の効果を上げている。
③ 列車の中で伊達が柏木に行うロシアン・ルーレット。この時に語る「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話は、アービングの短編小説に実際にある。
④ この「リップ・ヴァン・ウィンクル」のセンテンスごとに、銃のトリガーを引くが、このシーンをよく見ていると、松田優作は一度も瞬きをしていないのが分かる。
⑤ 伊達の住んでいるマンションの内装は岩や石、レンガなどで装飾されているが、ほんの少し開いたドアから反対側の家のドアは、いたって普通のドアになっているのが分かる。つまり、外からの見た目は、全くノーマルと言う事の暗示だ。


あくまで個人的な思い入れと思い出によるが、日本映画史に残る、屈指の犯罪映画だ。
観客は、時として、悪に感情移入しにくく、ヒーローが待ち遠しくなるが、この映画のつくり方は、そんなものには一切興味が無い。
悪を崇拝し、人殺しこそが神の領域を超え、エクスタシーだと豪語する伊達に嫌悪感を抱きながらも、その一挙手一投足に目が奪われてしまうのは、俳優、松田優作の存在に尽きる。
後の『ブラック・レイン』でリドリー・スコットを驚かせ、出番を増やすために脚本まで書き換えさせたその魅力は、前作の『蘇える金狼』よりも上だ。
小林麻美を撃つのか?撃たないのか?と言う、この映画のハイライトだと個人的に考えるシーンは、見る度に切ない思いが込み上げて来る。
問題はラストだ。
この、日本映画史上最も難解なラスト・シーンは、観る人、見るタイミングで何通りもの解釈が出来てしまうのだ。
待ち伏せた警官に撃たれた説や、気が狂った瞬間をとらえたラスト説などなど色々あるが、どれも納得できない。
柏木が撃たれた直後の血だらけで、ゴーストのように現れるのは、明らかに時間軸がおかしいから、僕は最初、「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話をラストに重ねたのかと思っていた。
が、今回見た時は、伊達が撃たれた時に銃弾の音が、戦場のシーンのフラッシュバックで使われていた時の音と同じ事に注目した。
伊達は一体誰に撃たれたのか?
それは、過ちを繰り返してきた、過去からの銃弾に倒れたのだ、と言えば、それは少しキザ過ぎるだろうか?
つまり、ダテ過ぎるだろうか……。

当時、原作のファンからはかなりのダメだしをくらい、松田優作ファンからはイメージが違うと批判されたこの映画、作者の大藪春彦の小説を読んだ事も無いし、別に松田優作のファンでもなかった僕は、この映画が公開されていた時、1か月の出張で水戸の郊外の寮で生活をしていた。
同室の先輩が、原作を読んで面白そうだから映画も観に行こうと、誘ってくれたので、水戸の駅前の商店街の外れにある小さな映画館へと足を運んだ。
2本立てで、併映が確か『刑事珍物語』だった……。

刑事を刺殺して奪った拳銃で、闇カジノを襲撃して3人を打ち殺し、大金を手に入れた伊達邦彦(松田優作)は、長身だが細身で、何処か頼りない、普通のサラリーマンにしか見えなかった。
だが、戦場で人間の生死をまざまざと見せつけられたカメラマンの伊達の精神はすでに崩壊していた。
入念に銀行強盗の計画を練り、相棒の真田(鹿賀丈史)を見つけ、殺人マシーンとして訓練を行うと、計画を実行する。
が、先輩刑事を殺された警視庁捜査第一課の柏木(室田日出男)は、伊達を執拗にマークしていた。
強盗は成功するが、逃走中の伊達の前に、柏木が現れ、全ての事実を知る事になるのだが……。

① 松田優作の変貌ぶりは必見だ。体重を10キロ以上も落し、奥歯を全て抜いて頬がこけているように見せた。その上、身長を低く見せる為に、5センチほど足の骨を切断しようとしたが、さすがに実行はされなかった。
② クラシック・コンサートの会場で、小林麻美と知り合う、この映画の内容と真逆の微笑ましいシーンがあるが、これが後の悲劇を生み出す為の効果を上げている。
③ 列車の中で伊達が柏木に行うロシアン・ルーレット。この時に語る「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話は、アービングの短編小説に実際にある。
④ この「リップ・ヴァン・ウィンクル」のセンテンスごとに、銃のトリガーを引くが、このシーンをよく見ていると、松田優作は一度も瞬きをしていないのが分かる。
⑤ 伊達の住んでいるマンションの内装は岩や石、レンガなどで装飾されているが、ほんの少し開いたドアから反対側の家のドアは、いたって普通のドアになっているのが分かる。つまり、外からの見た目は、全くノーマルと言う事の暗示だ。


あくまで個人的な思い入れと思い出によるが、日本映画史に残る、屈指の犯罪映画だ。
観客は、時として、悪に感情移入しにくく、ヒーローが待ち遠しくなるが、この映画のつくり方は、そんなものには一切興味が無い。
悪を崇拝し、人殺しこそが神の領域を超え、エクスタシーだと豪語する伊達に嫌悪感を抱きながらも、その一挙手一投足に目が奪われてしまうのは、俳優、松田優作の存在に尽きる。
後の『ブラック・レイン』でリドリー・スコットを驚かせ、出番を増やすために脚本まで書き換えさせたその魅力は、前作の『蘇える金狼』よりも上だ。
小林麻美を撃つのか?撃たないのか?と言う、この映画のハイライトだと個人的に考えるシーンは、見る度に切ない思いが込み上げて来る。
問題はラストだ。
この、日本映画史上最も難解なラスト・シーンは、観る人、見るタイミングで何通りもの解釈が出来てしまうのだ。
待ち伏せた警官に撃たれた説や、気が狂った瞬間をとらえたラスト説などなど色々あるが、どれも納得できない。
柏木が撃たれた直後の血だらけで、ゴーストのように現れるのは、明らかに時間軸がおかしいから、僕は最初、「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話をラストに重ねたのかと思っていた。
が、今回見た時は、伊達が撃たれた時に銃弾の音が、戦場のシーンのフラッシュバックで使われていた時の音と同じ事に注目した。
伊達は一体誰に撃たれたのか?
それは、過ちを繰り返してきた、過去からの銃弾に倒れたのだ、と言えば、それは少しキザ過ぎるだろうか?
つまり、ダテ過ぎるだろうか……。

『アパートの鍵貸します』リセットしたい自分がいる…
こんばんは、ロッかリアです。
ある程度長い期間、映画を見て来た人、つまり、僕と同年代の人たちは、この映画をどんなタイミングで観ているんだろうか?
昔ならTVの洋画劇場でよくオンエアされていたから、見る機会も結構あったけど、今はBSの専門チャンネルは別として、自ら進んで観ようとしない限り、この映画を観ることはないんじゃないかと、ふと疑問に感じる。
とすると、自ら進んで観る、と言う行為には、何らかの理由があるんじゃないだろうか……。
僕には明確な理由と意図がある。
観る映画観る映画がとってもつまらなく感じてきた時。これは昨今の新作映画(特にハリウッド作品を指す)全般を見て強く感じている事だ。
映画を観る、と言う行為自体が億劫になった時。
あと、何が面白いのか?どんな映画が面白いのか?分からなくなった時、この映画をラックから取り出して、デッキに入れる。
このブログの第1回目の記事に、『冒険者たち』と言う映画は僕にとってのマイルストーンだと言った。
つまり、『冒険者たち』を観て、何の感動も、涙も流さなくなった自分がいたら、もうどんな映画を観ても僕は幸せな人生を送れないと思うからだ。

『アパートの鍵貸します』
この映画は僕に映画を観る楽しさ、素晴らしさを教えてくれる。
コメディ映画の代名詞のように言われることも多いが、人間賛歌のヒューマンな映画だと思う。
一つのアパートの鍵から始まり、その鍵があっちこっちに行き交うように、人の感情も右往左往する。
小道具の使い方が上手くて、それに見取れているうちに、次から次へと起こる出来事。
帽子、割れたコンパクト、ストローやオリーブ、テニスラケットにシャンパンと銃、年に一度のケーキやカミソリの刃、カードゲーム。そして、重役専用トイレと言う会話からも、当時の労働階級への批判が垣間見られたり、当時のアメリカが抱えていた、男女不平等、つまり男尊女卑などが、強く風刺されている。
しかも、圧倒的な、感情を揺さぶるような、ラブ・ストーリーとしても成立しているのだ。
張り巡らされた伏線の妙に、そうだったのか……と、誰もがヒザを叩き、うまい!と言う言葉が、思わず口から飛び出すはずだ。
ジャック・レモンの演技に加え、少しおバカでキュートな役のシャーリー・マクレーンが、真実の愛に目覚めていく過程を好演すると、ジャックはその愛ゆえに、男としてのプライドに目覚めて行く。好きとか嫌い、と言う単純なものではなく、いかにして人を愛し、人生と向き合うのか、そんな事が、説教じみた口調じゃなく、とてもオシャレな映画として描いているところが、ビリー・ワイルダー監督の凄いところだ。
この映画を観ると、映画を観る、と言う行為がリセットされ、面白い映画とは、どう言うものなのかを、思い起こさせてくれる。
この映画を観なくても映画は語れるだろう。
この映画以外にも、素晴らしい映画は沢山あるのだから。
でも僕は、この映画を観たこと無い人から、映画の話は、あんまり聞きたくない。
何故なら、これこそが映画だと、今でも強く信じているからだ……。
ある程度長い期間、映画を見て来た人、つまり、僕と同年代の人たちは、この映画をどんなタイミングで観ているんだろうか?
昔ならTVの洋画劇場でよくオンエアされていたから、見る機会も結構あったけど、今はBSの専門チャンネルは別として、自ら進んで観ようとしない限り、この映画を観ることはないんじゃないかと、ふと疑問に感じる。
とすると、自ら進んで観る、と言う行為には、何らかの理由があるんじゃないだろうか……。
僕には明確な理由と意図がある。
観る映画観る映画がとってもつまらなく感じてきた時。これは昨今の新作映画(特にハリウッド作品を指す)全般を見て強く感じている事だ。
映画を観る、と言う行為自体が億劫になった時。
あと、何が面白いのか?どんな映画が面白いのか?分からなくなった時、この映画をラックから取り出して、デッキに入れる。
このブログの第1回目の記事に、『冒険者たち』と言う映画は僕にとってのマイルストーンだと言った。
つまり、『冒険者たち』を観て、何の感動も、涙も流さなくなった自分がいたら、もうどんな映画を観ても僕は幸せな人生を送れないと思うからだ。

『アパートの鍵貸します』
この映画は僕に映画を観る楽しさ、素晴らしさを教えてくれる。
コメディ映画の代名詞のように言われることも多いが、人間賛歌のヒューマンな映画だと思う。
一つのアパートの鍵から始まり、その鍵があっちこっちに行き交うように、人の感情も右往左往する。
小道具の使い方が上手くて、それに見取れているうちに、次から次へと起こる出来事。
帽子、割れたコンパクト、ストローやオリーブ、テニスラケットにシャンパンと銃、年に一度のケーキやカミソリの刃、カードゲーム。そして、重役専用トイレと言う会話からも、当時の労働階級への批判が垣間見られたり、当時のアメリカが抱えていた、男女不平等、つまり男尊女卑などが、強く風刺されている。
しかも、圧倒的な、感情を揺さぶるような、ラブ・ストーリーとしても成立しているのだ。
張り巡らされた伏線の妙に、そうだったのか……と、誰もがヒザを叩き、うまい!と言う言葉が、思わず口から飛び出すはずだ。
ジャック・レモンの演技に加え、少しおバカでキュートな役のシャーリー・マクレーンが、真実の愛に目覚めていく過程を好演すると、ジャックはその愛ゆえに、男としてのプライドに目覚めて行く。好きとか嫌い、と言う単純なものではなく、いかにして人を愛し、人生と向き合うのか、そんな事が、説教じみた口調じゃなく、とてもオシャレな映画として描いているところが、ビリー・ワイルダー監督の凄いところだ。
この映画を観ると、映画を観る、と言う行為がリセットされ、面白い映画とは、どう言うものなのかを、思い起こさせてくれる。
この映画を観なくても映画は語れるだろう。
この映画以外にも、素晴らしい映画は沢山あるのだから。
でも僕は、この映画を観たこと無い人から、映画の話は、あんまり聞きたくない。
何故なら、これこそが映画だと、今でも強く信じているからだ……。
『波の数だけ抱きしめて』そして僕は、あの時代へ…
『コンドル』 サスペンスの名作!
いよいよゴールデン・ウィーク突入ですね!皆さんはどんな映画を観られるんでしょうか!?
こんばんは、ロッカリアです。
さて、先日紹介した映画本、「さらば愛しきサスペンス映画」の中にも登場したこの映画、大好きな作品です。
CIAの下部組織に勤めるターナー(ロバート・レッドフォード)、コードネーム『コンドル』は、世界中の本、特にミステリーやサスペンスをの内容を分析して、CIAの情報や計画と類似していないかなどを上層部に報告するだけと言う、簡単な業務についていた。
遅刻してきたその日、雨が降り出し、ターナーはランチを済ませる為に、普段なら通らない裏口から路地を使い、事務所を後にする。
ランチを終えて帰って来ると、事務所にいた全員が殺されていて、自らの危険を察知したターナーはCIAに保護を求める。
だが、旧知の友人と待ち合わせた場所に、一緒に現れたワシントン支局の上司は、ターナーを見るなりいきなり発砲する。ターナーが反撃すると、傷を負った上司は友人を射殺するが、後にこの上司も入院先の病院で殺される……。
観客は何が何だか分からないまま、ターナーと行動を共にしなければならず、この辺りはサスペンス一色に包まれる。
発砲現場から逃げたターナーは、飛び込んだブティックでキャサリン(フェイ・ダナウェイ)を銃で脅し、彼女の自宅へ向かうが……。

CIAの中にもう一つのCIAがあると言う仮説や、ターナーが分析してきたミステリー小説の中の手口を使って逃走し、真相を追うストーリーが抜群だ。
ニューヨークを走って逃げ惑うレッドフォードの姿は、翌年『大統領の陰謀』で共演したダスティン・ホフマンが主演した『マラソン・マン』に受け継がれているように考えると、なお楽しい。
また、「70年代アメリカ映画100」の中では、原作とラストや細部が変更されたのは、オイル・マネーと言う時代背景が反映していると指摘している。
孤独な心情が写真に出てしまうカメラウーマンを演じたフェイ・ダナウェイだが、レッドフォードがいくらハンサムでも、あそこまでの信頼と惜しみない協力には多少の疑問符を投げかけたい。
また、9.11で崩壊した世界貿易センタービルの中から、マンハッタンの街並みが見えるシーンは、今となっては貴重だし、感慨深いものがある……。
このブルーレイには特典映像が結構あって、その中でCIAと言う組織は、第二次世界大戦のキッカケとなった、日本軍による真珠湾攻撃が発端である、と言う話が、歴史が苦手な僕にはトリビアだった。
デイブ・グルーシンのサウンドトラックいがサスペンスと甘美なムードを盛り上げていて、何回見ても面白い映画に仕上がっている。

この映画は1975年当時、名画座で頻繁にリバイバルされた。中でも、アラン・ドロンの『フリック・ストーリー』との併映が最強の組み合わせだったのだ。
この2作品は、ロードショー公開時、お正月映画として激突した。
そして、貧乏な僕は、当然どちらか、二者択一を求められたが、結局『フリック・ストーリー』を見に行った。
決め手は、お正月映画と言う事もあり、『コンドル』の方が、劇場が混んでいたからだ。
劇場が混んでる、混んどる、『コンドル』、バンザーイ!(…………)
良い休日を!!!
『悪魔の手毬唄』 本当に恐いシーンはここ!
こんばんは、ロッカリアです。
手毬唄を歌いながら毬を付く老婆のシーンが凄すぎる!
映画を観ていて、ふと何気無いシーンに「あっ」と、鳥肌が立つ。
そのシーンとは、聴かせたい唄があると呼ばれた金田一耕助が訪れた家で、老婆が歌いながら手毬を付く。
ただそれだけのシーンなのだが、よく見ると老婆が付く手毬は、まるで異次元空間を漂うように、異常なのだ。
何回も見ている映画なのに、今迄は違和感を感じなかった。YOUTUBEでこのシーンの映像は見つけられなかったけど、DVDを持っている人はチェックして見てはどうでしょう。
前作の『犬神家の一族』よりは地味な演出ながら、血は水よりも濃いと歌う原作のイメージさながらに展開する物語は凄味を増している。とりわけ、犯人の意志の強さと愛情の深さに起因する連続殺人事件は、今回も金田一耕助を悩ます。映画に関しては今更とやかく言う必要もないだろう。そこで、今回は…
金田一耕助と言う名探偵についての一考察を。
時折耳にする、彼はただ事件の傍観者に過ぎないし、語り部に過ぎない、と言う批判交じりの評価を聞くが、では何故彼が、僕や熱狂的なファンの間で名探偵であるのか?
まず、古今東西の名探偵、すなわちホームズであったり、ポアロやファイロ・ヴァンス、明智小五郎やエラリーたちにしても、一体誰が天才的な犯人の犯行を食い止める事が出来たと言うのか?
彼らは、不可能犯罪を太陽の下にさらけ出して、悪魔の仕業としか言いようのない所業を、ものの見事に解決する知力、推理力を持ち合わせている。
そう、本格推理においては、事件の真相を暴いて犯人を突き止める事こそが命題であって、犯行阻止を目的としていないのだ。
金田一は、一部でよく言われる、「犯行を食い止める事が出来ないダメな探偵」と言う一部のレッテルに対する僕なりの反論だ。
そう言う視点から彼の探偵ぶりを見る(読む)と、ホームズのような天才型とは少し違い、ポアロのように嫌味も無く、ファイロ・ヴァンスのように理論派でも無く、明智のようにクールでもないし、エラリーのようにお高くとまらないし、勿論マーロウのようにタフではない。
血や死体を見ると尋常じゃないほど驚き、分からないとすぐに調べに行っちゃうし、困るとすぐに頭を掻く。

事件を解決しても自慢しないし、人一倍思いやりもある……。何処から見ても平凡な庶民と変わらないが、真実を追求する魂と、悪を絶対許さない正義感が根底にある。
それが、事件に携わった人々の記憶に残り、僕たちの心に刻み込まれる。
小説のイメージを見事に再現して見せた石坂浩二も凄いが、5作品のすべてを日本映画史に残る作品に昇華させた市川崑監督の手腕は見事としか言いようがない。
個人的にはTVシリーズの古谷一行氏も好感が持てるが、原作にあるひょうひょうとしたイメージは、やはり石坂に軍配が上がる。(これは好みの問題だと思うけどね…)
「迷路荘の惨劇」「仮面舞踏会」「悪魔が来たりて笛を吹く」と言うラインナップも、石坂=市川のコンビで見てみたかったが、今となっては叶わぬ夢だ……。
これ以上に凄い横溝作品の映画を作れる人材が、今後邦画界にも現れてくれると嬉しいものだが……。



映画を観ていて、ふと何気無いシーンに「あっ」と、鳥肌が立つ。
そのシーンとは、聴かせたい唄があると呼ばれた金田一耕助が訪れた家で、老婆が歌いながら手毬を付く。
ただそれだけのシーンなのだが、よく見ると老婆が付く手毬は、まるで異次元空間を漂うように、異常なのだ。
何回も見ている映画なのに、今迄は違和感を感じなかった。YOUTUBEでこのシーンの映像は見つけられなかったけど、DVDを持っている人はチェックして見てはどうでしょう。
前作の『犬神家の一族』よりは地味な演出ながら、血は水よりも濃いと歌う原作のイメージさながらに展開する物語は凄味を増している。とりわけ、犯人の意志の強さと愛情の深さに起因する連続殺人事件は、今回も金田一耕助を悩ます。映画に関しては今更とやかく言う必要もないだろう。そこで、今回は…
金田一耕助と言う名探偵についての一考察を。
時折耳にする、彼はただ事件の傍観者に過ぎないし、語り部に過ぎない、と言う批判交じりの評価を聞くが、では何故彼が、僕や熱狂的なファンの間で名探偵であるのか?
まず、古今東西の名探偵、すなわちホームズであったり、ポアロやファイロ・ヴァンス、明智小五郎やエラリーたちにしても、一体誰が天才的な犯人の犯行を食い止める事が出来たと言うのか?
彼らは、不可能犯罪を太陽の下にさらけ出して、悪魔の仕業としか言いようのない所業を、ものの見事に解決する知力、推理力を持ち合わせている。
そう、本格推理においては、事件の真相を暴いて犯人を突き止める事こそが命題であって、犯行阻止を目的としていないのだ。
金田一は、一部でよく言われる、「犯行を食い止める事が出来ないダメな探偵」と言う一部のレッテルに対する僕なりの反論だ。
そう言う視点から彼の探偵ぶりを見る(読む)と、ホームズのような天才型とは少し違い、ポアロのように嫌味も無く、ファイロ・ヴァンスのように理論派でも無く、明智のようにクールでもないし、エラリーのようにお高くとまらないし、勿論マーロウのようにタフではない。
血や死体を見ると尋常じゃないほど驚き、分からないとすぐに調べに行っちゃうし、困るとすぐに頭を掻く。

事件を解決しても自慢しないし、人一倍思いやりもある……。何処から見ても平凡な庶民と変わらないが、真実を追求する魂と、悪を絶対許さない正義感が根底にある。
それが、事件に携わった人々の記憶に残り、僕たちの心に刻み込まれる。
小説のイメージを見事に再現して見せた石坂浩二も凄いが、5作品のすべてを日本映画史に残る作品に昇華させた市川崑監督の手腕は見事としか言いようがない。
個人的にはTVシリーズの古谷一行氏も好感が持てるが、原作にあるひょうひょうとしたイメージは、やはり石坂に軍配が上がる。(これは好みの問題だと思うけどね…)
「迷路荘の惨劇」「仮面舞踏会」「悪魔が来たりて笛を吹く」と言うラインナップも、石坂=市川のコンビで見てみたかったが、今となっては叶わぬ夢だ……。
これ以上に凄い横溝作品の映画を作れる人材が、今後邦画界にも現れてくれると嬉しいものだが……。

