あえて”恐怖の『電送人間』”と呼びたい!
今日は【シネマ・サーフィン~14~】の時間です。
こんばんは、ロッカリアです。
これは、1960年に作られた、SFスリラーの傑作だと断言するのだ。
遊園地のお化け屋敷風の洞窟に呼び出された男は、衆人環境の中、幽霊みたいにぼんやりと光る男に銃剣(戦時中に接近戦で敵を刺すために、銃の先に取り付けられた剣)で殺される。
犯人は、目撃者が多数いたにもかかわらず、目の前から忽然と姿を消してしまった。(ここで、何故現場に洞窟を見立てたお化け屋敷なのか考え込んだが、後にその理由が分かった)
この事件の取材に来ていたのが、鶴田浩二演じる桐岡と言う新聞記者で、現場に落ちていた電子部品(クライオトロン)から、戦時中に物質を転送する研究をしていた仁木博士が事件に関わっていると推理する。
実は、この仁木博士をガードしていた須藤と言う男(中丸忠雄!)は、終戦時に金塊を盗んで洞窟に隠そう(ああ、それで冒頭のシーンの意味が分かる)とした同じ隊の大西たちに殺され(実際には生き延びていた)その復讐の為に、仁木博士の電送装置を使ってアリバイを作り、殺人(軍票を送りつけると言う予告殺人になっている)を繰り返すのだ。
物語が始まってすぐに、先日取り上げた『美女と液体人間』のヒロイン、白川由美が登場して、今回も物語を華やかにするのと同時に恐怖を盛り上げてくれる。(今回もスリップ姿になるシーンが…)
この作品の見所は、いかにして人間を電送するのか?と言う事だが、送信機はある地点(ないしょ)に設置してあって問題ないが、電送先にも同じ装置が必要になる。
そこで須藤は、あらかじめそのマシンを行きたい場所に運送屋に運ばせている。
だから、予告状に何時何処々へ来いと書いてあったのだ。(芸が細かい)
しかし、そのマシンを警察に発見されるとマズイので、転送後、毎回マシンを爆破してしまうのだ。
なんとも効率の悪い話である。
しかも、仁木博士が考案したマシンなのに、須藤が作れるはずもないし、大量生産できるような代物でもないし、おまけに一台、また一台と台数が減って行けば、「あいつがそんな事を…」と言う言い訳は通用しないと思うのだが……。
今回の特撮にはスタッフも相当苦労したようで、その大変さは特典で知る事が出来る。
電送シーンはCGの無い時代では、フィルムの一コマ一コマに手書きで書き込む。若い人には信じられないだろうが、この辺の面白い話は『スーパー8』の特典(ブルーレイだけかも知れないが)でスピルバーグや監督のエイブラムスが語っているので、参考に見るといいよ。
この映画は、電送人間を演じた中丸忠雄の熱演がやばいが、当の本人は試写で自分の姿を見た際、「とんでもない役を引き受けてしまった…」とかなり後悔した事を、オーディオ・コメンタリーで振り返っている。
また、いわゆるこの音声解説ではこんな話も。
オープニングの洞窟での殺人シーンに、遊びに来た客として、若き日の児玉清氏の姿があると。
早速見直すと、確かに若すぎるが児玉氏だと言われて初めて分かる。(白のスイングトップを着ている)
この『電送人間』は、変身人間シリーズ中、最も怖い作品に仕上がっている
これだけ寒くなって来ると、僕も暖かいハワイなどに行ってみたいが、飛行機大嫌い人間なので、この電送装置があれば大いに助かる!(無いよ…)

これは、1960年に作られた、SFスリラーの傑作だと断言するのだ。
遊園地のお化け屋敷風の洞窟に呼び出された男は、衆人環境の中、幽霊みたいにぼんやりと光る男に銃剣(戦時中に接近戦で敵を刺すために、銃の先に取り付けられた剣)で殺される。
犯人は、目撃者が多数いたにもかかわらず、目の前から忽然と姿を消してしまった。(ここで、何故現場に洞窟を見立てたお化け屋敷なのか考え込んだが、後にその理由が分かった)
この事件の取材に来ていたのが、鶴田浩二演じる桐岡と言う新聞記者で、現場に落ちていた電子部品(クライオトロン)から、戦時中に物質を転送する研究をしていた仁木博士が事件に関わっていると推理する。
実は、この仁木博士をガードしていた須藤と言う男(中丸忠雄!)は、終戦時に金塊を盗んで洞窟に隠そう(ああ、それで冒頭のシーンの意味が分かる)とした同じ隊の大西たちに殺され(実際には生き延びていた)その復讐の為に、仁木博士の電送装置を使ってアリバイを作り、殺人(軍票を送りつけると言う予告殺人になっている)を繰り返すのだ。
物語が始まってすぐに、先日取り上げた『美女と液体人間』のヒロイン、白川由美が登場して、今回も物語を華やかにするのと同時に恐怖を盛り上げてくれる。(今回もスリップ姿になるシーンが…)
この作品の見所は、いかにして人間を電送するのか?と言う事だが、送信機はある地点(ないしょ)に設置してあって問題ないが、電送先にも同じ装置が必要になる。
そこで須藤は、あらかじめそのマシンを行きたい場所に運送屋に運ばせている。
だから、予告状に何時何処々へ来いと書いてあったのだ。(芸が細かい)
しかし、そのマシンを警察に発見されるとマズイので、転送後、毎回マシンを爆破してしまうのだ。
なんとも効率の悪い話である。
しかも、仁木博士が考案したマシンなのに、須藤が作れるはずもないし、大量生産できるような代物でもないし、おまけに一台、また一台と台数が減って行けば、「あいつがそんな事を…」と言う言い訳は通用しないと思うのだが……。
今回の特撮にはスタッフも相当苦労したようで、その大変さは特典で知る事が出来る。
電送シーンはCGの無い時代では、フィルムの一コマ一コマに手書きで書き込む。若い人には信じられないだろうが、この辺の面白い話は『スーパー8』の特典(ブルーレイだけかも知れないが)でスピルバーグや監督のエイブラムスが語っているので、参考に見るといいよ。
この映画は、電送人間を演じた中丸忠雄の熱演がやばいが、当の本人は試写で自分の姿を見た際、「とんでもない役を引き受けてしまった…」とかなり後悔した事を、オーディオ・コメンタリーで振り返っている。
また、いわゆるこの音声解説ではこんな話も。
オープニングの洞窟での殺人シーンに、遊びに来た客として、若き日の児玉清氏の姿があると。
早速見直すと、確かに若すぎるが児玉氏だと言われて初めて分かる。(白のスイングトップを着ている)
この『電送人間』は、変身人間シリーズ中、最も怖い作品に仕上がっている
これだけ寒くなって来ると、僕も暖かいハワイなどに行ってみたいが、飛行機大嫌い人間なので、この電送装置があれば大いに助かる!(無いよ…)
『美女と液体人間』は、恐怖のアメーバだ!
今日は【シネマ・サーフィン~13~】の時間です。
クリックすると……↓ ↓ ↓ ↓ ↓

こんばんは、ロッカリアです。
まず、特撮映画の特集はこの映画から。
プロローグはまるで『ゴジラ』を見ているようだ。
水爆実験に巻き込まれた第二竜神丸の船員たちは、まるでマリー・セレスト号事件のように忽然と姿を消した。
今回の一連の事件は、強い放射能を浴びてしまった第二竜神丸の船員が液体化しても生き延び、東京に漂着し、それに触れた人間が同じように液体化して、ゾンビのように増殖してしまうのが原因。
雨が降る夜の東京で、銀行強盗が発生する。が、逃走中の犯人の一人、三崎がタクシーにひかれてしまう。
運転手が恐る々確認すると、確かに服はあるが、男の姿は何処にもない。
この姿を消した、つまり、液体人間となってしまった三崎と同棲していたのが、キャバレー「ホムラ」で歌手をしている新井千加子(白川由美)で、嫉妬から命を狙われる。
そして、銀行強盗や麻薬密売の仲間たちに恨みを抱き、次々に襲いかかるのだ。
事件の異常性にいち早く気付いたのが、、生物化学を専攻する政田助教授(佐原健二)で、この政田の友人が、警視庁の富永(平田昭彦)で、銀行強盗犯を追っていた。
最初、政田の人間液体化を鼻で笑っていたが、千加子が液体人間に襲われるのを見て、信用するようになり、この異常な事件の解決に全力を尽くすが……。
見所はいくつかあって、一つは液体化した人間の姿、つまりドロドロのスライム見たいなやつが、人を襲うシーン。
だが、これは『マックイーンの絶対の危機(ピンチ)』(TV放映時は『人食いアメーバの恐怖』!!)のアメーバにそっくりで、制作年月の順番から言って、『アメーバ』の方が日本公開が1964年ではあるが、1958年に作られた事を考えると、何らかの形で特撮陣はこの映像を見て、参考にしているのは間違いない。
また、もう一つの見所に、『第三の男』の舞台となったウィーンの地下下水道をかなり意識したシーンがあって、この中を逃げる液体人間と、同じように警察から逃げる犯人の生き残りと、人質になった千加子、液体人間を焼き払おうとする警察と、千加子を助けようとする政田が合い乱れ、東宝お得意のスペクタル・シーンもあり充分楽しめる。
全編を通して、この映画はやはり白川由美の存在なくして成立しなかった、と言ってもいいだろう。
清楚な顔立ちにもかかわらず、最後の方はスリップ姿で下水道の中を歩き回ったり、キャバレーでは胸元の空いたドレスを着て、歌うシーンなどがあり、そのギャップがとてもいい。
この作品を機に、大人向けの変身人間シリーズが作られたが、この『美女と液体人間』が一番ホラー色が強い作品となっている。
今見ても面白い作品だが、年代が古いので、トーゼン突っ込み所はある。
が、東宝特撮のテイストを充分堪能でき、この慌ただしい師走に見る贅沢は、何ものにも替えがたいものがある。
うれし過ぎて、僕も身体が溶けちゃいそうだ……。
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こんばんは、ロッカリアです。
まず、特撮映画の特集はこの映画から。
プロローグはまるで『ゴジラ』を見ているようだ。
水爆実験に巻き込まれた第二竜神丸の船員たちは、まるでマリー・セレスト号事件のように忽然と姿を消した。
今回の一連の事件は、強い放射能を浴びてしまった第二竜神丸の船員が液体化しても生き延び、東京に漂着し、それに触れた人間が同じように液体化して、ゾンビのように増殖してしまうのが原因。
雨が降る夜の東京で、銀行強盗が発生する。が、逃走中の犯人の一人、三崎がタクシーにひかれてしまう。
運転手が恐る々確認すると、確かに服はあるが、男の姿は何処にもない。
この姿を消した、つまり、液体人間となってしまった三崎と同棲していたのが、キャバレー「ホムラ」で歌手をしている新井千加子(白川由美)で、嫉妬から命を狙われる。
そして、銀行強盗や麻薬密売の仲間たちに恨みを抱き、次々に襲いかかるのだ。
事件の異常性にいち早く気付いたのが、、生物化学を専攻する政田助教授(佐原健二)で、この政田の友人が、警視庁の富永(平田昭彦)で、銀行強盗犯を追っていた。
最初、政田の人間液体化を鼻で笑っていたが、千加子が液体人間に襲われるのを見て、信用するようになり、この異常な事件の解決に全力を尽くすが……。
見所はいくつかあって、一つは液体化した人間の姿、つまりドロドロのスライム見たいなやつが、人を襲うシーン。
だが、これは『マックイーンの絶対の危機(ピンチ)』(TV放映時は『人食いアメーバの恐怖』!!)のアメーバにそっくりで、制作年月の順番から言って、『アメーバ』の方が日本公開が1964年ではあるが、1958年に作られた事を考えると、何らかの形で特撮陣はこの映像を見て、参考にしているのは間違いない。
また、もう一つの見所に、『第三の男』の舞台となったウィーンの地下下水道をかなり意識したシーンがあって、この中を逃げる液体人間と、同じように警察から逃げる犯人の生き残りと、人質になった千加子、液体人間を焼き払おうとする警察と、千加子を助けようとする政田が合い乱れ、東宝お得意のスペクタル・シーンもあり充分楽しめる。
全編を通して、この映画はやはり白川由美の存在なくして成立しなかった、と言ってもいいだろう。
清楚な顔立ちにもかかわらず、最後の方はスリップ姿で下水道の中を歩き回ったり、キャバレーでは胸元の空いたドレスを着て、歌うシーンなどがあり、そのギャップがとてもいい。
この作品を機に、大人向けの変身人間シリーズが作られたが、この『美女と液体人間』が一番ホラー色が強い作品となっている。
今見ても面白い作品だが、年代が古いので、トーゼン突っ込み所はある。
が、東宝特撮のテイストを充分堪能でき、この慌ただしい師走に見る贅沢は、何ものにも替えがたいものがある。
うれし過ぎて、僕も身体が溶けちゃいそうだ……。
年末と言えば、特撮映画なんだよ諸君!
今日は【シネマ・サーフィンの告知】の時間です。
夢と希望、恐怖と憧れ。
子供の頃に抱いた色んな感情がいっぱい詰まっている。
それが特撮映画だった。
洋画とは決定的に違う所?
それは、洋画は夢の世界の出来事だった。
大都会、ニューヨークに金髪の美男美女。
見た事も無い豪華なディナーへ招待されたり、地平線に向かって疾走するハーレーは、憧れ以上のモノだった。
でも、特撮は違った。
貧しかった頃の日本が舞台で、ピシッと横分けした新聞記者や、ガラの悪いオッサンのケンカ。
半ズボンの小学生に、牛乳ビンの底のようなメガネをかけた教師。
その時代を如実に映し出していた。
でも、そんな厳しい現実の中に突如現れる空飛ぶ円盤や宇宙人。
信じられないぐらいに大きいカメに、水爆の怨念を吐き出す怖い怪獣。
色っぽいヒロインに、科学に狂った学者たち。
見た事も聞いた事も無いような、化学兵器や無重力の世界。
非現実的でありながら、とてもリアルに感じた映画の世界。
それが特撮映画と言うものだった。
50歳を越えた今も、子供の頃とは少し違う視点で作品世界に入り込んでしまう。
いい大人が、いや、いい歳したオッサンが…、と笑われたって構うもんか。
楽しいものは幾つになっても楽しいのだ。
人生なんて、所詮楽しんだ人間の勝ちだ。(←出たっ、小市民の叫び!)
と言う事で、前回のミステリー特集から一転、面白い作品から、トンデモ映画、特撮のいい所悪い所ごちゃまぜで、東宝特撮に限らずアップして行こうと思います。
途中に色んな記事を挟みながら、ゆる~い感じで年末まで一緒に楽しみましょう、ご同輩!

子供の頃に抱いた色んな感情がいっぱい詰まっている。
それが特撮映画だった。
洋画とは決定的に違う所?
それは、洋画は夢の世界の出来事だった。
大都会、ニューヨークに金髪の美男美女。
見た事も無い豪華なディナーへ招待されたり、地平線に向かって疾走するハーレーは、憧れ以上のモノだった。
でも、特撮は違った。
貧しかった頃の日本が舞台で、ピシッと横分けした新聞記者や、ガラの悪いオッサンのケンカ。
半ズボンの小学生に、牛乳ビンの底のようなメガネをかけた教師。
その時代を如実に映し出していた。
でも、そんな厳しい現実の中に突如現れる空飛ぶ円盤や宇宙人。
信じられないぐらいに大きいカメに、水爆の怨念を吐き出す怖い怪獣。
色っぽいヒロインに、科学に狂った学者たち。
見た事も聞いた事も無いような、化学兵器や無重力の世界。
非現実的でありながら、とてもリアルに感じた映画の世界。
それが特撮映画と言うものだった。
50歳を越えた今も、子供の頃とは少し違う視点で作品世界に入り込んでしまう。
いい大人が、いや、いい歳したオッサンが…、と笑われたって構うもんか。
楽しいものは幾つになっても楽しいのだ。
人生なんて、所詮楽しんだ人間の勝ちだ。(←出たっ、小市民の叫び!)
と言う事で、前回のミステリー特集から一転、面白い作品から、トンデモ映画、特撮のいい所悪い所ごちゃまぜで、東宝特撮に限らずアップして行こうと思います。
途中に色んな記事を挟みながら、ゆる~い感じで年末まで一緒に楽しみましょう、ご同輩!
【第三の男】 シネマ・サーフィン~12~
今日は【世紀の傑作映画】の時間です。
こんばんは、ロッカリアです。
個人的な事で申し訳ありませんが、今日で51歳になりました……。(←それが何だ!)
こほん。
まず最初に、これはミステリーなのか?と言う疑問に、じゃあサスペンス?フィルム・ノアール?サスペンス?ラブ・ストーリー?と自問自答してみた。
これらの要素を全て含んだミステリーだと言えるんじゃないだろうか。
第二次世界大戦後に、旧友のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)から、仕事を紹介するからウィーンに来いと言われるホリー・マーチンス(ジョゼフ・コットン)。
だが、到着してすぐにハリーの家を訪ねると、彼は交通事故で死んだと知らされ、その足で葬儀場へ向かう。
ハリーはすでに土の中へ埋められるところで、そこにいたハリーの彼女、アンナ(アリダ・ヴァリ)はまだ死んだ事が信じられない様子で、すぐに立ち去る。
そこで知り合ったキャロウェイ少佐から、ハリーは闇取引の悪人だと聞かされ、作家の性分なのか、ハリーの事を調査し始めるが……。

事故当時、倒れたハリーを介護した人間が、当初二人だと言われていたのだが、ハリーの家の管理人(門衛)の証言から、そこに第三の男の存在が判明する。
だが、この証言をした管理人が何者かに殺されると、その容疑がホリーにかけられる。
逃げるように、アンナの家に転がり込んだホリーだったが、アンナからはハリーと呼ばれ気分が悪い。
おまけに、アンナの買っているネコは、ハリーにしかなつかないと言う。
そのネコを横目で見ていたが、ネコが部屋を出て行くと、暗闇の中にじっとしている男の足元で、楽しそうにじゃれていた……。
ヒッチコックの影響を多分に受け、それを手本とした映像設計だが、ヒッチ先生の徹底した作り込みの美学に対して、キャロル・リード監督は、都会的で洗練された映像で魅了する。
特に、音楽に関して言えば、ヒッチ先生は人間の心理描写、場面効果を狙ったのに対して、リード監督は、主人公たちの感情を表す事に徹底した。
この効果は絶大で、今やビールのCMでお馴染みのあのテーマ、今や絶滅危惧種のチターという多弦楽器が奏でるメロディーは統一感がありながら、場面場面で違う印象、最初と最後ではその響きの意味が全く違うように感じると言う、全く見事としか言いようがない。
戦後直後のウィーンの街並み、遊園地の観覧車、ホテルや古い建物の空気感、それらが全てミステリーの舞台装置であり、その集大成が迷路のように張り巡らされた下水道でのチェイス。
ここ一番で見せる光と影の魔法のような演出。
作家のグレアム・グリーンが書き下ろした原作と脚本。
これらが見事に融合して、あのラスト・シーンへと繋がって行くこの作品は、映画史上に燦然と輝く傑作だと明言した。
この映画を見ずに、映画を語る人は、まだ本当に凄い映画と言うものを知らないと思った方がいい。
撮影と演出だけ、他の小細工は一切存在しないこの名画を、特に若い映画好きな人に贈りたい。
これが、映画。
こんばんは、ロッカリアです。
個人的な事で申し訳ありませんが、今日で51歳になりました……。(←それが何だ!)
こほん。
まず最初に、これはミステリーなのか?と言う疑問に、じゃあサスペンス?フィルム・ノアール?サスペンス?ラブ・ストーリー?と自問自答してみた。
これらの要素を全て含んだミステリーだと言えるんじゃないだろうか。
第二次世界大戦後に、旧友のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)から、仕事を紹介するからウィーンに来いと言われるホリー・マーチンス(ジョゼフ・コットン)。
だが、到着してすぐにハリーの家を訪ねると、彼は交通事故で死んだと知らされ、その足で葬儀場へ向かう。
ハリーはすでに土の中へ埋められるところで、そこにいたハリーの彼女、アンナ(アリダ・ヴァリ)はまだ死んだ事が信じられない様子で、すぐに立ち去る。
そこで知り合ったキャロウェイ少佐から、ハリーは闇取引の悪人だと聞かされ、作家の性分なのか、ハリーの事を調査し始めるが……。

事故当時、倒れたハリーを介護した人間が、当初二人だと言われていたのだが、ハリーの家の管理人(門衛)の証言から、そこに第三の男の存在が判明する。
だが、この証言をした管理人が何者かに殺されると、その容疑がホリーにかけられる。
逃げるように、アンナの家に転がり込んだホリーだったが、アンナからはハリーと呼ばれ気分が悪い。
おまけに、アンナの買っているネコは、ハリーにしかなつかないと言う。
そのネコを横目で見ていたが、ネコが部屋を出て行くと、暗闇の中にじっとしている男の足元で、楽しそうにじゃれていた……。
ヒッチコックの影響を多分に受け、それを手本とした映像設計だが、ヒッチ先生の徹底した作り込みの美学に対して、キャロル・リード監督は、都会的で洗練された映像で魅了する。
特に、音楽に関して言えば、ヒッチ先生は人間の心理描写、場面効果を狙ったのに対して、リード監督は、主人公たちの感情を表す事に徹底した。
この効果は絶大で、今やビールのCMでお馴染みのあのテーマ、今や絶滅危惧種のチターという多弦楽器が奏でるメロディーは統一感がありながら、場面場面で違う印象、最初と最後ではその響きの意味が全く違うように感じると言う、全く見事としか言いようがない。
戦後直後のウィーンの街並み、遊園地の観覧車、ホテルや古い建物の空気感、それらが全てミステリーの舞台装置であり、その集大成が迷路のように張り巡らされた下水道でのチェイス。
ここ一番で見せる光と影の魔法のような演出。
作家のグレアム・グリーンが書き下ろした原作と脚本。
これらが見事に融合して、あのラスト・シーンへと繋がって行くこの作品は、映画史上に燦然と輝く傑作だと明言した。
この映画を見ずに、映画を語る人は、まだ本当に凄い映画と言うものを知らないと思った方がいい。
撮影と演出だけ、他の小細工は一切存在しないこの名画を、特に若い映画好きな人に贈りたい。
これが、映画。
『華麗なるアリバイ』 シネマ・サーフィン~11~
今日は【クリスティ原作のフランス映画】の時間です。
こんばんは、ロッカリアです。
アガサ・クリスティ原作「ホロー荘の殺人」の映画化。
それは良しとしても、僕個人の意見としては、決定的に選択を間違えているような気がする。
と言うのも、フランス映画でこの手のミステリー、つまり本格ものは似合わない、と思っている。
本格ミステリーと言うのは、ミステリーと言う分野の中でも極めてロジカルな要素が強いからだ。
このロジカルな部分がいい加減だと、観客(読者)は重箱の隅を突いて攻撃して来るのが、本格なのだ。
これが、フランス人の芸術気質と反すると考えている。(あくまで個人的な意見ね)
ボアロー&ナルスジャックのようなトリッキーな作家も確かにいるが(古い?)、ジョルジュ・シムノンに代表されるような叙事詩的な作風が抜群にいいし、セバスチャン・ジョプリゾのような強烈なサスペンスの方が似合っているような気がする。
つまり、人間を描くのが上手い(心理描写を含めて)のがフランス映画の特徴と言えるのに、それとは一番遠い所(あくまで黄金期の話、昨今は事情が変わって来てるけど…、多少…)にある本格は違うんじゃないか?と言う事。
前置きが長くなってしまった……。
ミステリーを見る前は、特に予備知識が無い方がいい、が……。
この作品に関してはあまりにもなさ過ぎて、原作に登場する名探偵ポアロが出て来ない。(チェッ!)
クリスティ自身も「この小説にはポアロは必要なかった」と述べているように、映画を見る限り本当にそう思う。
さて、どうしたものか……。
この映画を説明するのには、ネタバレ覚悟じゃないと、辛いものがある。なので、これから見るかも知れないなぁ、頭の隅にちょこっとでもある人は、以降読まない事をおススメします。(映画自体の質はあまりおススメできないけど、タイトルを含めたトリックは、クリスティ印に間違いない、と言った作品なんだ)

まずは簡単に状況を説明しよう。
上院議員の屋敷に8人の男女が集まり、晩餐会をするが、みんな顔馴染みだ。
中でも医者のピエールはモテモテで、妻と一緒に参加するが、上の落書きのように、不倫中のエステルと、昔の恋人で女優のレアもそこに参加、悪い予感がする。
おまけにホストの議員は銃マニアで、そのコレクション・ルームには膨大な数が蒐集されている。
案の定、色男のピエールが銃で撃たれ殺される。
銃声を聞いて駆け付けたみんなは、妻のクレールが38口径のピストルを手に呆然と座り込んでいるのを目撃する。その姿を見たエステルは、何故かその銃を払い落とす……。
この状況に、警察は当然第一容疑者として、妻のクレールを連行する。
尋問に対して、自分でも何が起こったか分からないと言うクレールに困惑する警察に、さらなる追い討ちが。
殺されたピエールからは38ミリの銃弾ではなく、19ミリが検出される。
一方、ある夜遅く、屋敷の庭で何かを探しているエステルが、19ミリのオートマチック銃を拾い、あわてて屋敷に戻る。エステルが犯人なのか?
この辺の巧妙さはクリスティ印なのだが、映画的には「警察も捜査していただろう……」と突っ込みたくなる。
だが、今回はファインプレイがある。
それはこの映画のタイトルだ。
一部のブロガーさんはタイトルに嘘がある、と指摘しているようだが、それは少し違う。
普通、アリバイと言うのは、犯行現場から最も遠く、その存在を証明される事によって無実が証明されるのだが、今回のアリバイは真逆で、犯行現場に一番近い存在証明でありながら、犯人では無いと立証される事を意味するのだ。
これはアリバイと言う言葉を、邦題で逆手に取った配給会社のファインプレイだと思う。(よほどのミステリーが好きな人が付けたのか、と思う一方で、真逆のアホ…、いや、ミステリーは全然と言う人が付けたのか、真相は不明だけど…)
原作を知っていたので、まさかポアロが出て来ないと言う、単純なトリックに騙されて映画を見た僕は、この先、ミステリーを語っていいものかどうか……、少し不安だ……。
次回は古い作品だが、これはこれで物議をかもすだろうなぁ……、ねぇ、ハリー君……。
こんばんは、ロッカリアです。
アガサ・クリスティ原作「ホロー荘の殺人」の映画化。
それは良しとしても、僕個人の意見としては、決定的に選択を間違えているような気がする。
と言うのも、フランス映画でこの手のミステリー、つまり本格ものは似合わない、と思っている。
本格ミステリーと言うのは、ミステリーと言う分野の中でも極めてロジカルな要素が強いからだ。
このロジカルな部分がいい加減だと、観客(読者)は重箱の隅を突いて攻撃して来るのが、本格なのだ。
これが、フランス人の芸術気質と反すると考えている。(あくまで個人的な意見ね)
ボアロー&ナルスジャックのようなトリッキーな作家も確かにいるが(古い?)、ジョルジュ・シムノンに代表されるような叙事詩的な作風が抜群にいいし、セバスチャン・ジョプリゾのような強烈なサスペンスの方が似合っているような気がする。
つまり、人間を描くのが上手い(心理描写を含めて)のがフランス映画の特徴と言えるのに、それとは一番遠い所(あくまで黄金期の話、昨今は事情が変わって来てるけど…、多少…)にある本格は違うんじゃないか?と言う事。
前置きが長くなってしまった……。
ミステリーを見る前は、特に予備知識が無い方がいい、が……。
この作品に関してはあまりにもなさ過ぎて、原作に登場する名探偵ポアロが出て来ない。(チェッ!)
クリスティ自身も「この小説にはポアロは必要なかった」と述べているように、映画を見る限り本当にそう思う。
さて、どうしたものか……。
この映画を説明するのには、ネタバレ覚悟じゃないと、辛いものがある。なので、これから見るかも知れないなぁ、頭の隅にちょこっとでもある人は、以降読まない事をおススメします。(映画自体の質はあまりおススメできないけど、タイトルを含めたトリックは、クリスティ印に間違いない、と言った作品なんだ)

まずは簡単に状況を説明しよう。
上院議員の屋敷に8人の男女が集まり、晩餐会をするが、みんな顔馴染みだ。
中でも医者のピエールはモテモテで、妻と一緒に参加するが、上の落書きのように、不倫中のエステルと、昔の恋人で女優のレアもそこに参加、悪い予感がする。
おまけにホストの議員は銃マニアで、そのコレクション・ルームには膨大な数が蒐集されている。
案の定、色男のピエールが銃で撃たれ殺される。
銃声を聞いて駆け付けたみんなは、妻のクレールが38口径のピストルを手に呆然と座り込んでいるのを目撃する。その姿を見たエステルは、何故かその銃を払い落とす……。
この状況に、警察は当然第一容疑者として、妻のクレールを連行する。
尋問に対して、自分でも何が起こったか分からないと言うクレールに困惑する警察に、さらなる追い討ちが。
殺されたピエールからは38ミリの銃弾ではなく、19ミリが検出される。
一方、ある夜遅く、屋敷の庭で何かを探しているエステルが、19ミリのオートマチック銃を拾い、あわてて屋敷に戻る。エステルが犯人なのか?
この辺の巧妙さはクリスティ印なのだが、映画的には「警察も捜査していただろう……」と突っ込みたくなる。
だが、今回はファインプレイがある。
それはこの映画のタイトルだ。
一部のブロガーさんはタイトルに嘘がある、と指摘しているようだが、それは少し違う。
普通、アリバイと言うのは、犯行現場から最も遠く、その存在を証明される事によって無実が証明されるのだが、今回のアリバイは真逆で、犯行現場に一番近い存在証明でありながら、犯人では無いと立証される事を意味するのだ。
これはアリバイと言う言葉を、邦題で逆手に取った配給会社のファインプレイだと思う。(よほどのミステリーが好きな人が付けたのか、と思う一方で、真逆のアホ…、いや、ミステリーは全然と言う人が付けたのか、真相は不明だけど…)
原作を知っていたので、まさかポアロが出て来ないと言う、単純なトリックに騙されて映画を見た僕は、この先、ミステリーを語っていいものかどうか……、少し不安だ……。
次回は古い作品だが、これはこれで物議をかもすだろうなぁ……、ねぇ、ハリー君……。