『転校生』 出会いと別れのファンタジー…。
こんばんは、ロッカリアです。
出会いは二人を童心に返し、別れは二人を大人へと導いた……。
僕は転校生だった。
小学校で2回、中学校で1回。
転校先で待っているのは、決まってケンカとイジメだったが、めげない性格だったから、そんなもんは何処吹く風だった。
だが、学校を去る時は違った。
仲の良い友達もでき、好きな女の子もいたから、別れは辛かった。
今の時代なら、単身赴任と言う便利な制度(笑)があるが、昭和のあの時代、決まって親の都合で、子供の人生は大きく左右されたのだ……。(僕の場合は母子家庭だったけどね)
そんな僕だから、転校生ものの映画やTVを見る時は、少しだけ感情移入が強くなる。
眉村卓氏のジュブナイル「なぞの転校生」や、これをTV化した「少年ドラマシリーズ」、そして、この大林宣彦監督の『転校生』には、それなりに強い思い入れがある。
転校して来た幼馴染みの斉藤一美と、一字違いの斉藤一夫。
二人は、階段から落ちると、中身が入れ替わっていた……。
この奇想天外なシチュエーションを、大林監督は、尾道の風景を丹念に描く事によって、絵空事ではない真実味を持たせている。
が、その一方で、最初に階段から落ちるまでをモノクロ、階段から落ちて入れ替わった世界をカラー、そして、再び元の身体に戻るとモノクロで映す事によって、現実世界をモノクロで、幻想的な世界をカラーで表現した、とも取れる。
或いは単純に、ラストの8ミリ撮影を生かすためだけの処置かも知れないが、その捉え方は個人の自由だろう。
原作の主人公二人は小学生だが、設定を中学生にしたことで、男女間の性の問題、感情の問題を大胆に表現している。

この映画、リアルタイムで見ていた頃、僕は20代だったので、見過ごした事、気が付かなかった事もあったが、さすがに50を過ぎると、多少神経が回るようになったが、あの頃見た気持ちと今の感情に全く変わりはない。
中身が入れ替わった事で、二人は自分自身と対面する事になる。
これ以上客観的に自身を見る事は無いだろう。
同時に、相手(入れ替わっている自分)の立場も知る事になる。
ここで、この映画について面白いシーンがある。
ひとつは、一夫の家の塀に、名画座で上映される映画のポスターが貼られている。物語が進むにつれて、その作品が『駅馬車』『アパッチ砦』『ラスト・シューティスト』(←全てジョン・ウェインの主演作)と変わって行くが、単にお遊びでやっているんじゃない。
当時の名画座での上映期間を考えると、1週間から長くて2週間ぐらい。
ポスターが変わって行く事によって、時間軸の進みを表している、と考えられないだろうか。
もう一つ、一夫になってしまった一美は家出を決意、一美になってしまった一夫はそれに付き合うよう、共にフェリーに乗って外泊をするが、この時二人の会話は殆どない。
「G線上のアリア」が流れ、美しい夕焼けや風景の中で淡々と二人の時間が流れて行く。
音楽と景色だけで二人の心象を映し、二人は互いの心が手に取るように分かっている事を観客に伝える。
これは、まさにヌーベルヴァーグの再現だ。
そしてラストは秀逸だ。
元に戻った二人だったが、転校して来た一美と入れ替わるように、今度は一夫が横浜へ行く事になる。
別れの日、走り出した車に向かって一美が叫ぶ。
「さよなら、ワタシ!」
一夫も叫ぶ。
「さよなら、オレ!」
入れ替わっていた身体に別れを告げると言う単純な解釈より、男女の入れ替わりと言う特異な体験をした事で、少し大人になった二人。
それぞれが、ひとつの青春時代に別れを告げる言葉が、ここに凝縮されていると思いたい。
遠ざかる一美を、車の窓から8ミリで撮影する一夫。
青春の、甘く切ない記憶を、まるで心に刻むようだ。
ラストのワン・カット。
追うのを諦めた一美は立ち止まり、悲しそうに下を向くが、身体を反転させると、スキップをしながら帰って行く。
それはまるで、希望に満ちた明日に向かって行くように……。
「青春時代、否、人生には哀しい事や嫌な事、色々あるが、明日と言う日に希望を見つけて前に進もうよ」
大林監督の、そんなメッセージが、僕には聞こえたよ……。
出会いは二人を童心に返し、別れは二人を大人へと導いた……。
出会いは二人を童心に返し、別れは二人を大人へと導いた……。
僕は転校生だった。
小学校で2回、中学校で1回。
転校先で待っているのは、決まってケンカとイジメだったが、めげない性格だったから、そんなもんは何処吹く風だった。
だが、学校を去る時は違った。
仲の良い友達もでき、好きな女の子もいたから、別れは辛かった。
今の時代なら、単身赴任と言う便利な制度(笑)があるが、昭和のあの時代、決まって親の都合で、子供の人生は大きく左右されたのだ……。(僕の場合は母子家庭だったけどね)
そんな僕だから、転校生ものの映画やTVを見る時は、少しだけ感情移入が強くなる。
眉村卓氏のジュブナイル「なぞの転校生」や、これをTV化した「少年ドラマシリーズ」、そして、この大林宣彦監督の『転校生』には、それなりに強い思い入れがある。
転校して来た幼馴染みの斉藤一美と、一字違いの斉藤一夫。
二人は、階段から落ちると、中身が入れ替わっていた……。
この奇想天外なシチュエーションを、大林監督は、尾道の風景を丹念に描く事によって、絵空事ではない真実味を持たせている。
が、その一方で、最初に階段から落ちるまでをモノクロ、階段から落ちて入れ替わった世界をカラー、そして、再び元の身体に戻るとモノクロで映す事によって、現実世界をモノクロで、幻想的な世界をカラーで表現した、とも取れる。
或いは単純に、ラストの8ミリ撮影を生かすためだけの処置かも知れないが、その捉え方は個人の自由だろう。
原作の主人公二人は小学生だが、設定を中学生にしたことで、男女間の性の問題、感情の問題を大胆に表現している。

この映画、リアルタイムで見ていた頃、僕は20代だったので、見過ごした事、気が付かなかった事もあったが、さすがに50を過ぎると、多少神経が回るようになったが、あの頃見た気持ちと今の感情に全く変わりはない。
中身が入れ替わった事で、二人は自分自身と対面する事になる。
これ以上客観的に自身を見る事は無いだろう。
同時に、相手(入れ替わっている自分)の立場も知る事になる。
ここで、この映画について面白いシーンがある。
ひとつは、一夫の家の塀に、名画座で上映される映画のポスターが貼られている。物語が進むにつれて、その作品が『駅馬車』『アパッチ砦』『ラスト・シューティスト』(←全てジョン・ウェインの主演作)と変わって行くが、単にお遊びでやっているんじゃない。
当時の名画座での上映期間を考えると、1週間から長くて2週間ぐらい。
ポスターが変わって行く事によって、時間軸の進みを表している、と考えられないだろうか。
もう一つ、一夫になってしまった一美は家出を決意、一美になってしまった一夫はそれに付き合うよう、共にフェリーに乗って外泊をするが、この時二人の会話は殆どない。
「G線上のアリア」が流れ、美しい夕焼けや風景の中で淡々と二人の時間が流れて行く。
音楽と景色だけで二人の心象を映し、二人は互いの心が手に取るように分かっている事を観客に伝える。
これは、まさにヌーベルヴァーグの再現だ。
そしてラストは秀逸だ。
元に戻った二人だったが、転校して来た一美と入れ替わるように、今度は一夫が横浜へ行く事になる。
別れの日、走り出した車に向かって一美が叫ぶ。
「さよなら、ワタシ!」
一夫も叫ぶ。
「さよなら、オレ!」
入れ替わっていた身体に別れを告げると言う単純な解釈より、男女の入れ替わりと言う特異な体験をした事で、少し大人になった二人。
それぞれが、ひとつの青春時代に別れを告げる言葉が、ここに凝縮されていると思いたい。
遠ざかる一美を、車の窓から8ミリで撮影する一夫。
青春の、甘く切ない記憶を、まるで心に刻むようだ。
ラストのワン・カット。
追うのを諦めた一美は立ち止まり、悲しそうに下を向くが、身体を反転させると、スキップをしながら帰って行く。
それはまるで、希望に満ちた明日に向かって行くように……。
「青春時代、否、人生には哀しい事や嫌な事、色々あるが、明日と言う日に希望を見つけて前に進もうよ」
大林監督の、そんなメッセージが、僕には聞こえたよ……。
出会いは二人を童心に返し、別れは二人を大人へと導いた……。
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