『リンカーン:秘密の書』ああ、双葉先生…。

最初に言っておくけど、銀の銃弾に倒れるのは1941年のユニバーサル映画『狼男の殺人』以来、映画界では狼男であって、吸血鬼じゃない!
また、いくら『トワイライト』が流行ったからと言って、サングラスと日焼け止めで白昼を闊歩する吸血鬼は、いかがなものか……。
(『海外特派員』へのオマージュ↓)

考えてもみてよ、吸血鬼は太陽が沈むと棺桶ベッドから起き上がる。だから、観客だってスクリーンの中に夜が訪れると緊張に包まれ、早く夜が明けないのかと、祈りたくなるのだ。
リンカーン大統領をヴァンパイア・ハンターに設定し、南北戦争と言う歴史背景を取り込むアイデアは良いが、南軍がいつの間にかヴァンパイア軍団になっているのは興ざめだ…….

この映画や、最近のVFXを多用した映画ばっかり観ていると、99歳で亡くなられた、僕が勝手に映画の師と仰ぐ映画評論家の双葉十三郎先生の言葉を思い出さずにはいられない。

ぼくは、映画は1950~60年代にピークを迎えていまった、と考えている。
(中略)さらに、映画が映画だったのは二十世紀で終わってしまったのではないか、とも思っている。その理由のひとつは、CGに代表されるハイテクノロジーだ。断崖絶壁で危険なアクションが展開される場面など、従来は本人かスタントマンが実際にやったものだが、これをCG活用のゴマ化し構成映像で処理したら、ハラハラする前に興ざめしてしまう。
リアルな恐竜がなめらかに動く。なるほど面白いかもしれないが、それだけだったら動く恐竜図鑑にすぎないのではないか。それに『ジュラシック・パーク』は『ロスト・ワールド』(1925)を作り直しただけ、と言う思いもある。トシのせいかな?
(中略)
ぼくはあまり楽観していない。(今後の映画に対して)
もう一つの理由は、かつての映画がほとんどのことをなしとげてしまったので、新しい何か、をなかなか生み出せないことだ。(それは60年代以降から感じていた)。およそ芸術、表現は、初めて考えついてそれを創造すること(オリジナリティ)が何より大切だろう。
現代の画家は、セザンヌのような絵、を苦もなく描けるだろうが、そんな絵を今見て誰が感心するだろう……。
「外国映画ぼくの500本」より
この作品に限らず、映像作家は何を僕たちに見せたいのか?或いは何を訴えたいのか?
そんな事が伝わって来ないのは、双葉先生が言うように、映画はアトラクションになってしまったからなのか……。
芸術は殻を破ることで生まれ、伝統は革新が生まれてこそ歴史を刻んで行く。映画は総合芸術だし、100年以上もの歴史を見れば伝統と言う言葉もうなずけるだろう。
だが、殻を破るには技術だけではなく、そこには発想も伴うと思うし、伝統を受け継いで守り、より高めて行くには、歴史を認識した上で成立し、なによりも、受け継ぐ人の感性が大切だと思う。
方法は受け継ぐ事が出来るだろうが、感性を受け継ぐ事は出来ない。しかし、映画と言う総合芸術をより高い次元に引き上げようとするなら、感性こそが大事なんじゃないだろうか。
同じ吸血鬼の映画で、1985年の『フライトナイト』は僕も劇場で観たが、当時はディスコで獲物を狙うヴァンパイアとして話題を集めた。その中で、迫るヴァンパイアにロディ・マクドウォールがここ一番で十字架をかざす。当然怯むだろうと思っていたら、ヴァンパイアは近付いて十字架を握りしめると、「信じていない、こんな物など役に立たんわ!」(←大阪弁…)と言って焼いてしまう。
なるほど、そう言う解釈もあるのかと、今迄に無い新しいヴァンパイア像を見た気がした。
吸血鬼と言うコードの中にありながらも、柔軟で斬新な、そしてユニークな発想だと思ったよ。
悲観的な、ネガティブな意見を並べたように思われるかも知れないが、そんな時代にあっても、必ず新しい人材と言うものが輩出されると僕は信じている。
CGの力を最大に引き出しながらも、見世物じゃない、凄みを持った映画は必ず現れると信じているのだ。
クリストファー・ノーランのように、或いはダンカン・ジョーンズのような監督が陸続と現れる事を切望して止まない。
最後に、自他共に日本一の洋画宣伝マンの古澤利夫氏の著書「明日に向かって撃て!」の中から。
映画が劣化すれば、観客も劣化します。
映画は文化ですからね。
オマケですが昨日娘からこんな物を頂きました。

『禁断の惑星』のロビーのピンバッチ、アンティークです。
大切にします。
また、息子夫婦からも財布やハンカチ等も頂きました。
ここに感謝の気持ちを込めて。
ありがとう。
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